ガニ股禁止法
｢悪性歩行禁止法制定｣
新聞の一面にはそう出ていた。一度目をつぶり、もう一度見た。やはり同じことが書いてあった。 戦後世代が高齢者の大半を占める現在。これまでの貧しい時代ではなく、飽食の時代に育った人々の体は、結構もろかった。老人のほとんどが、生活習慣病か何かの持病を抱えているのである。一昔前ならとっくに亡くなっているだろうそれらの人々だが、医療技術の発達により様々な延命処が施され、すぐに死ぬことはない。 しかし、莫大な医療費がかかり、それが深刻な社会問題となっていた。 そのためか、最近健康に関する過敏なほどの法律が毎日のように制定されているのだが、はっきりと禁止と出ているのは今回がはじめてだった。
さて、はっきりいって困った。私は蟹股なのである。幼いころから、「女の子なんだから、蟹股はやめなさいといわれていたが、直らなかったのである。蟹股ではカッコ悪いので、短いスカートもめったにはかないし、サンダルもはかないのだ。
大学に着くと、掲示板に張り紙が出ていた。
｢悪性歩行禁止法による特別授業来週一週間は、歩行訓練の特別授業を行います。
学科学生番号により、指定の時間が決まっているので掲示を確認し、必ず出席すること。
最終日の歩行試験に合格しないと、学籍を除名することもあります。
なお、指定の日程では都合の悪いものは、直ちに教務課に相談すること」
なんてこった。ついに学校まで法律に侵食されたとは。
それから、一週間は毎日歩行訓練だった。一日目は法案の提案者の著書、女性の歩き方、男性の歩き方などの講義が延々と続き、二日目には本を頭に載せて歩かされた。そして、三日目には、浴衣を着ての講義だった。
「昔は蟹股の女性など存在しませんでした。和服というのは姿勢がよくないと着こなせないものです。本当でしたら皆さんには浴衣ではなく訪問着を着てもらうところですが、時間もなく、この時期クーラーがない部屋というのは暑いものですので、浴衣を着てもらいました」
教育ママみたいな横長の眼鏡をかけた初老の教員が、甲高い声で喋っていた。
「そりゃそうだろう」と私は思った。蟹股で着物を着ていたらすぐに着崩れる。最近では浴衣なんてお祭りでさえろくに着る人はいない。かといって狭い室内で歩行訓練では、お祭り気分が味わえるはずもなく、誰もうれしくはなかった。
結局、一週間わけのわからない訓練が続き、最終日はテスト。 何とかぎりぎりの成績で私は合格した。
それからは地獄だった。携帯電話の電波塔を利用して、所々に監視カメラがつけられたらしい。五分以上蟹股で歩いていると、記録され罰金を払うことになる。はっきりいって、駐車違反より厳しい。電車やバスで、大股広げて座っていても記録される。口やかましい近所のおばさんが最近いないなと思っていたら、蟹股で警察につかまっていた。脚線美を売り物にしていていつも足を組んでいたタレントが、きっちりと膝をそろえて座るようになって、すぐに人気は落ちた。
いつのまにか、私は体重が10キログラムも減っていた。２．３キログラムだったらラッキーと思うが、そうはいかない。なんせ、講義の時いつも膝をそろえていなければならない。歩く時はモデルのように綺麗に歩かなければならない。はっきり言って拷問だった。まだ花の大学生だというのに、目の下にはくっきりクマができて、髪はつやがない。化粧ののりも全然よくない。この前襟の大きく開いた服を着たら、鎖骨がくっきり見えた。
うちは、それほど大きな大学でもなかったが、教授の一人が知りあいだというので、この法律が制定される原因となった医学博士教授の公演が開かれた。私は聴きたくなかったが、ある講義でこれについての感想文を提出する必要があったので、公演を聴きにいった。
教授は、テレビでインタビューに答えている時の印象と同じで、どこかおどおどした小柄なおじさんだった。話はうまいらしい。小柄で歩き方が女々しい馬鹿にされた幼少時代から、努力という言葉で彩られた青春時代。歩き方についての研究を続け現在に至ったこと。それこそ、テレビの偉人の伝記番組のごとく演出で、人々の拍手を浴びていた。
はっきりといえば、私は腹が立った。よく聞いていると、このおっさんは、歩き方に一種のコンプレックスを抱いたいるのではないか。このおっさんは、（綺麗ではあるが、めめしいとばかにされる）歩き方を馬鹿にされて、この法律を作ったのではないかという気がしてきた。裏付ける証拠がないわけではない。プリントに印刷されたプロフィールを見ると、政治家の家系に生まれ親兄弟は、みんな政治家である。このおっさん、直接の子孫ではないが、歴史に残るような政治家のの親戚筋にあたるという。伯父と兄の一人は、現役の議員である。そう、みんなこのおっさんが悪い。
そうに違いない。
教授がとうとう蟹股の悪口を言い始めたの対して、私は耐え切れなくなった。
「蟹股の人が悪いとは、私は思いません」
私は、席立った。それほど大きな声で言ったわけではないが、よく響いた。
「あなたは、蟹股が悪い悪いといいますけど、私は蟹股のせいではなく、この法律のせいで体を壊しました。
野次と拍手が私に浴びせられた。伊藤氏は真っ赤になって私をにらみつけていた。
「それは、君が蟹股だったからで……」
教授は、必死になって弁明しようとしていたけど、野次にだまされてた。
「かっこいいー」
「もっと言えー」
様々な野次の飛び交う中、私は隣の友人の視線を感じつつ講堂を後にした。
さようなら、学校。さようなら友達。もう戻れまい。
家に帰ると玄関には刑事がいた。
「任意同行できますか？」
そうは聞いてきたものの、どっから聞きつけたのか、刑事の手に握られていたのは逮捕礼状だった。
取調室は、ドラマと同じで本当に机と椅子しかなかった。すぐ、白衣を着た女性が中に入ってきた。大きな用途のわからない機械を台車にのせて持ってきていた。
「聞いたわよ。あなた教授にたてついたんですって。勇気あるわねー」
彼女は、どこかサディスッテックな笑みを浮かべながら寄ってきた。
「残念ながら、あなたこのままでは牢屋に入れられちゃうわよ。牢屋って知ってる。中に入るとあんなことや、こんなことになちゃうのよ……」
女は、耳に入れたくないような言葉を連発してきた。こういう人とは、友人はおろか近所付き合いもしたくはない。
「そこで、あたしが助けてあげるわ。これはねー、最新の洗脳装置なのー」
女は、猫でもなでるように洗脳装置をなでた。
「これを使えば、あなたは自分が蟹股だったことも忘れて、綺麗な歩き方ができるようになるから」
冗談ではない。暗示装置ならともかく（というわけではないが）、洗脳なんて真っ平だ。蟹股の癖は確かに気に入っていないけど私の癖で、法律に逆らったのは私の意思だ。
「……冗談じゃない。そんなことされるくらいなら……」
と、どうにか逃げようとするけど、椅子が拘束具になっていて、もがくことしかできない。女はうれしそうに大きなヘルメットみたいなものを取り出してきた。
「大丈夫。犬に噛まれたくらいですむから」
それこそ、冗談ではない。下手したら狂犬病だ。
助け舟だろうか。地獄への招待状かもしれない。その時、取調室の壁が爆破された。
気がつくと、どこかのビルにいた。部屋に埃だらけの机しかなくて、窓ガラスが割れているところを見ると廃ビルらしい。二十代半ばくらいの女性がコーヒーをいれてくれた。
「気がついた？」
「あのう。ここは何なんですか？」
「蟹股党のアジトよ」
半年前だったら、思わず笑ってしまうようなことを女性はいった。
「私達は、迫害に耐え歩行姿勢自由化のために戦っているの。それにしても、間に合ってよかった。あの洗脳装置、まだ実験段階なのよ。先日も仲間の一人があれのせいで、廃人になってしまったの」
女性は恐ろしいことを淡々と語った。
「蟹股法は、あの『生類哀れみの令』より意味のない、粗悪で無意味な法律よ。かの令でさえ、まだましな部分があったもの」
そこで女性は、言葉を止めた。表情から察するに、次に言う言葉を忘れたらしい。
「間引きを禁止したことですか？」
「そう、先に言わなくてもいいじゃない」
忘れていたくせに……。
「それにしても、あの教授に堂々と立て付くなんてすばらしいわ」
「別に、対したことじゃないですよ」
「いいえ、勇気ある行動よ。私もそうすればよかった」
女性は、何かを思い出すように遠い目をした。
「私は自分でいうのもなんだけど、この歳で大企業の事業部主任だったの。有給はほとんど使わないどころか、残業、休日出勤もこなし、『仕事と俺とどっちが大事なんだ』と彼氏にふられても、会社のために尽くしてきたわ。なのに、蟹股という理由でリストラされたのよ！」
女性は悔しそうに机を叩いた。上に乗っていたカップがはねあがった。
「そ、そうですか」
どうも、まずいところに来てしまったらしい。
「リーダーも日本陸軍に入って十五年。自衛隊時代から、人が嫌がるような厳しい任務もこなすエリートだったのに、蟹股が理由で除隊させられたの」
……かなりまずい。
「あの伊藤に立てついた女子大生がいると聞いて、急いで警察に潜入して爆破したの」
「はあ、そうですか……」
聞き流しそうになったが、どうもこの人達は警察署を爆破したらしい。なんだかいやな予感がして、私は携帯電話をニュースサイトにつないだ。
『テロリスト、警察を爆破！ 蟹股の反乱』
そう、大きく見出しがだていた。ついでに、私もいつのまにかテロリストの一員として載せられていた。今の状況は、テロリストに保護されたというより、拉致された方が近いのだが……きっと警察に行っても、保護されるどころか、逮捕されるな……。
こうして、私は娑婆と別れを告げることになったのだ。
蟹股党も、全国的に指名手配され、やけに回ったのか元々の計画だったのかは知らないが、私がなし崩し的に党に入って二日目に、教授の拉致計画が決行された。
拉致は、あっさりという言葉が似合うほどうまくいった。教授夫妻はＶＩＰ待遇になれた……というより、VIP待遇につかりきってだらけているらしい。ある要人のパーティが都内のホテルで行われた日、ハイヤーに偽装し紛れることになったのだが、あっさりと紛れこむことができた。さらに教授夫妻は、少しも疑うことなくハイヤーに乗り込み、すぐに眠り込む始末だ。
「諸君、我々の勝利は近づいた。疑うこともなく、政府は我々の要求を呑むだろう。蟹股法が成立する日も近い！」
ビルの大きなフロアーで（恐らくはホールだったのだろう）、集会が開かれた。一見、三十代後半のスポーツ好きの好青年にしか見えないリーダーは、ギシギシと鳴る机に乗って、演説をしていた。ついでに、教授夫妻は、その前に縄でぐるぐる縛られて転がっていた。
「世界は、我々のものだー！」
「うおぉぉぉぉー」
「おー」
私は後ろのほうで、小さな声を出した。やる気ないし。
「た、助けてくれー。もうすぐ子供が生まれるんだー」
集会も終盤に差し掛かった頃、教示は情けない声を出した。はて、夫人は五十代だし、おなかも膨らんでない。太ってはいるが。
「子、子供！ あなた、あの女と別けれてなかったのね！」
夫人が、器用に自分の夫に頭突きをかわした。愛人との子かい。
教授が私を見た。
「そ、そこの小娘。やはり、蟹股党だったか」
あなたのせいでね。とは言わなかった。大人だな。私。
「もし、私を解放してくれるなら。金をやるぞ。土地もだ。望むなら、海外亡命の手続きもしてやる。悪い話じゃないだろう」
教授は、相当錯乱しているらしい。
「我々が、望むのはそれではない。悪性歩行禁止法の廃止。そして、我我の名誉を回復する事だ」
「俺のリストラを取り消せ」
「俺なんか、婚約破棄されたんだ」
「俺なんか、女房に捨てられたんだ」
……なんか、なんていっていいものか……。
その時だった。
「教授を解放しろ。我々はテロリストには譲歩しない。今すぐ選ぶがいい。降伏か。死かを！」
窓の外を見ると、機動隊がビルを取り囲んでいた。テロリストには譲歩しない。これって、国際常識だっけ。
「降伏なんてするか。こうなったらみんな死ぬのみだ」
党員の誰かが、机の下からコピー機くらいの大きさのものを取り出した。汗をびっしりかいていた。相当錯乱しているらしい。
「ま、待て！」
「そ、そうだ！ 早まるな」
党員達は、必死で止めようとする。
「あれって何？」
わたしの問いに、リーダーは青い顔をした。
「陸軍からかっぱらってきた、中性子爆弾だ」
原子爆弾の一種である。爆破すると、建物は倒れないのに、動物がばたばた死んでいくもので、最も非人道的な兵器のひとつとされている。
「どうせ死ぬんだ。道連れにしてやる！」
彼は、爆破装置を弄くり始めた。
その時、外からの銃弾が男の胸を貫いた。だが、倒れる男の体がスイッチを押した。
ブゥゥン
低い音と共に爆弾が吹っ飛んだ。
途端に意識が重くなる。頭が上がらない。体が重い。吐き気がするのに、咽喉が動かない。次から次へとどこかが重くなってくる。つらい。
その時、ポケットから携帯電話が落ちた。
奇跡的に動いている携帯電話の画面に文字が表示されていた。
『悪性歩行禁止法。経済悪化、財政圧迫、失業率に拍車をかけたため廃止』
|
