許せないと思った。

出てくるとき、トリスの脚を引っ掛けようと足を椅子から突き出していた級友の足を思い切り踏みつけたことはやりすぎかもしれないとは思ったが、あいつらはいつもそれ以上のことをトリスにしている。
召喚師の家計に生まれたのがなんだというのだ。
どの家に生まれるのかは自分では選べないのに、おかしいと思う。
ネスティはあんなに優秀なのに、養子というだけで馬鹿にされた。
そんなネスティと、ネスティと違って正真正銘の落ちこぼれである自分を弟子にしているラウル師範も馬鹿にされた。

悔しかった。

もしかしたら、彼等が自分の師範や兄弟子ではなかったら、あんなには馬鹿にされなかったかもしれない。
そう思うと、やりきれなくなって思わず教室を飛び出してしまったのだ。



曇天のようなトリスの心境とは関係なく、派閥の庭園は春のうららかな陽気をかもし出していた。

派閥の外に下手に抜け出すと、兄弟子に見つかるかもしれない。
しかし、こうして敷地内の庭園で大人しくしていて、授業の終わる時間に何食わぬ顔で寮に戻ればおそらく大丈夫だろう。
敷地の中でもこの辺りはもう使われていない古い建物しかない。召喚師たちはおろか、見回りの兵士たちでもろくに来ることはないのだ。

草木の陰に隠れて、大人しく昼寝でもしていよう。
トリスは手ごろな場所を物色し始めた。ふと、そのとき何かが聞こえた。
「……えっ」
微かにしか聞こえなかったけど、間違いなく誰かの嗚咽だった。
街の一区画に相当する派閥の敷地は無駄に広い。
もしかしたら、見習いに入ったばかりの誰かが迷ってしまったのかもしれない。
自身も迷ったことのあるトリスはそう考えた。
彼女の場合、そういう時は必ず兄弟子が探しにきてくれて手を繋いで一緒に帰ったものだ。
しかし、今泣いているその子にはそういった人がいないのかもしれない。

何より、トリスは誰かが泣いているのを放っておくことなど出来なかった。

恐がらせないようにと、まるで獲物を狙う猫のようにトリスは耳を澄ませて慎重に近づいていった。



「……」

目が合って、思わず息を呑んだ。

茂みを掻き分けたそこにいたのは、トリスにとって一番意外な人物だった。
それは相手にとっても同じのようで、微かにぬれた瞳で彼は呆然とトリスを見上げた。
「……き、君は……」
君は馬鹿かとついいつもの口癖が出そうになったが、ネスティは慌てて口を噤んだ。
講義をサボっているのはネスティも同じで、これではトリスを一方的に攻めることは出来はしない。
「……ネス……泣いてたの？」
トリスに見つめられて、ネスティは慌てて頬をぬぐった。
よりによって一番見られたくないところを一番見られたくない人物に見られてしまった。これでは兄弟子の威厳もあったものではない。
「泣いてなんかない」
言いつくろったところで、頬はまだしめっている。
不思議なものを見たというように呆然とトリスはネスティを見ている。そんなトリスの顔を見ていられなくて、ネスティはそっぽを向いた。

放っておいて欲しい。
放っておいて欲しいのに、妹弟子は無遠慮に近づいてきた。
「怒られたの？」
「怒られてなんていない」
君と違って怒られることなどしていないと兄弟子は不機嫌に言った。
「どこか痛いの？」
「……どこも痛くない」
「……嘘だよ……」
菫色の瞳が近づいてきた。ネスティは思わず身をそらそうとする。しかしそれより早く、トリスの小さい手がネスティの頬に触れた。
「悲しくも痛くもないのに泣いたりしないよ」
ネスティの顔がゆがむ。
次の瞬間、ネスティはトリスにしがみつく様に腕を回した。
声もなく、彼は泣いていた。
その背中にトリスは静かに腕を回した。いつも彼が自分にしてくれているように、その背をそっとなでる。
ずっと背中をなでていた。ネスティが泣き止むまで……



「義父さんには黙っていろよ」
段々と茜色に染まっていく空を背にネスティは言った。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいな涼しい顔をしているが、まだどこか本調子ではないのだろう。
普段の彼ならば、派閥の敷地内でラウル師範を義父とは呼ばない。それに、ふたりの分身である影法師は、手をつないだまま地面に長く伸びていた。
ネスティも男の子だから泣いたのが恥ずかしいのかもしれない。
ネスティが泣いていた理由はわからないが、兄弟子に頼られているのがちょっとうれしかったからトリスは素直にうなずいた。
「うん。ラウル師範には黙っているね」
繋いだ小さな手の温かさがうれしかった。その笑顔がまぶしすぎて、横を向いたままネスティはちいさく言った。
「ありがとう」
何でお礼を言われたのかはわからなかったが、少しネスティは元気出たみたいだ。
それがうれしくて、トリスは繋いだ手をぎゅっと握った。



夢を見た。
先祖の記憶。まだクレスメントが調律者と呼ばれていたころの夢だ。

自分の先祖であるライルとクレスメントの当主が朗らかに笑っていたとても幸せな夢だった。

起きたときには別になんとも思わなかった。
先祖の記憶を受け継いでいる以上、誰かの過去の記憶を夢に見るのは良くあることだった。



今日は薬の支給日だった。
派閥の物資を管理しているフリップは、機械人形めとか悪態をつきながら薬を渡してきた。
いつものことだ。
今日は殴られも蹴られもしなかった。そう考えるといつもよりはまともなくらいだった。
いつものように無礼にならない程度の礼を言い、フリップの執務室を後にした。
次の講義に遅れないように、早足で廊下を歩いた。
その廊下に水滴が落ちた。外は晴れていて雨漏りなどするはずがない。
もう一度、今度は手に落ちた。
気がついたら頬が湿っていた。
水滴の出所は自分だ。
知らずにネスティは涙を流していた。



気が付いたら、講義をほったらかしていた。
無意識のうちに庭園にいたのは、妹弟子を探しているときに、ここが昼間でも人気がないことを知っていたからだ。まさか、妹弟子もここにいて、見つかってしまうとは思ってもいなかったけれど……



トリスに言われてやっと気が付いた。
泣いていたのは悲しかったからだ。
心が痛くて悲鳴を上げていたからだ。

あの、ライルには、友人がいた。一族がいた。
たとえ、故郷をなくそうと、悪魔の軍勢におびえようと、安らげる場所があったのだ。

それに比べて、今の自分のなんと惨めなことだろう。
一族は自分を残して死に絶え、自分もこうして、死ぬまで派閥に飼い殺される身だ。

自分には何もない。

そう思っていた。

しかし……
ネスティは横を見た。そこには、小さな手でネスティの手を握っている妹弟子がいた。
知らずに挙げていた悲鳴に彼女が気が付いてくれた。
彼女自身が自分の行動の意味に気が付いていないとしても、彼女は確かに自分を救ってくれた。

僕にはトリスがいる。

それだけで、心に温かいものが広がるのを感じた。
今はそれだけでいいと思う。



だた、繋いだ手の温かさがうれしくて、部屋に帰るまでそのまま手を繋いでいた。









トリスが泣く話はよくあるので、ネスティの話で。
泣かなきゃやってられないときもありますよね。
後半がお題19のあたたかい手になってしまった気もしないでもないです。